ドイツが東西に分裂した年、西粟倉村の山にて

oogaya

大茅青年團 昭24.7.25 下刈記念

写真右上の捺印に書かれている文字です。

大茅とは西粟倉村の最北部にある地区の名前。昭和24年は西暦1949年。これは今から67年も前の写真です。下刈りとは、植林した樹木の生長を阻害するような雑草や雑木を刈り取る作業のことを指します。

西粟倉村の林業について調べたいことがあり、たまたま手に入れることができました。写真を撮影した写真です。

これは、自分が生まれるずっとずっと前、自分の父でさえも生まれていない67年前のできごと。

1949年。
ドイツが東と西に分裂した年。
谷崎潤一郎の細雪がベストセラーになった年。
フォークの神様・高田渡が生まれた年。

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いつ頃のものかは分かりませんが、上は木馬曳きの写真。キンマビキと読みます。

山から丸太を運び出すための方法のひとつ。丸太を並べて木馬道をつくり、その道の上を木製ソリを用いて人間が引っ張るというもの。

写真の場合、山の斜面に丸太を並べて木馬道をつくるのではなく、木馬道自体も丸太を組み上げてつくっています。
木馬道の斜面角度が急過ぎると危険なので、斜面角度をゆるくするためにこのような方法をとっているのだと思います。

今や架線集材や集材機の使用が当たり前ですが、この時代にはそんなものはありませんでした。
相当な労力(と危険性)で丸太を搬出していることがよく分かります。
木馬曳きの仕事は重労働かつ危険性が高いため、非常に待遇のよい仕事だったとか。

去年の夏に、西粟倉村のお隣・鳥取県の智頭町で木馬曳きのイベントがありました。

智頭町の林業関係者の方々が、かつて行われていた丸太の搬出方法・木馬曳きを現代で再現してみようと開催され、ぼくも参加させていただきました。

実際の木馬曳きは恐ろしく大変で、大人10人が集まって全力で引っ張っても、一向に丸太は動きませんでした。
1トンにもなる木馬を木馬道から反れないように引っ張るだけでもたいへん。
それを一人二人で、一日に何往復もしたというのですから、当時は非常に過酷な重労働だったことが伺えます。

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これは皆伐(カイバツ)の写真。皆(みんな)伐り倒すから、皆伐。

写真後方の林は密度が高く、やせ細っている木が多いことが分かります。
手前の丸太から判断すると樹種はスギでしょう。齢級の若いスギ林を皆伐したように見えます。

当時はハーベスタやフォワーダのような林業機械なんて存在していません。その作業が人力で行われていました。何千本という木をわずか10人で伐り倒し続けたのでしょう。

最初の下刈の写真でしか正確な時期が判断できないのですが、おそらく50年以上前。
実際に西粟倉村でおこなわれていた林業の現場の様子です。

1960〜1970年代はいわゆる木材需要拡大期。

いたるところでスギやヒノキが植林され、丸太や製品の価格は上がり調子、製材工場も増えた。材木商が高額納税者ランキングに名を連ねた。まさにゴールドラッシュのような時代。

子や孫のためにと、次代の繁栄を願って木を植えるひとも多かったと聞きます。

ぼくたち材木屋が仕入れている丸太は、この時代に植えられたもの。
植えられた木々はじっくりと太く大きくなり、50年の時を経て、ようやく素材となるのです。
ぼくたちはその丸太を仕入れ、フローリングをはじめとした木製品をつくっています。

村を見渡せば、当たり前のように人工林が目につきます。
工場に行けば、当たり前のように製材機が動いています。
毎日、運送会社のトラックがお客さんのもとへと商品を届けてくれます。

毎日は当たり前のように過ぎ去って、当たり前ということすら認識できないのだけれど、林業は恐ろしいほどにながい時間軸の中で成立していることを感じるのでした。

次代を思う余裕なんて持っていないのが現代人のホンネかもしれないし、次代に資産を残すということは貴い。こうして西粟倉の山が豊かなのは、先人たちの蓄積の賜物なのだ。

だから、たいへん。だけど、ロマンチック。
なのが林業なのかもしれないと思ったのでした。