竹原ピストルはアドラー心理学を歌う「健全な劣等感を抱いて生きてるかい?」

年末年始にかこつけて久しぶりの実家帰省。地元に戻り、27歳独身男が懐かしい友人に会えば、酒の肴は年相応になっているのでした。

結婚、出産、マイホーム…真人間のライフステージ

転職、結婚、出産、マイホーム…周りを見渡せばライフステージを一段も二段も駆け上がり、ずいぶんと大人びた「真人間」が増えてきました。

腰周りに着々と肉を蓄えている贅肉男もいれば、通帳に着々とゼロの数を増やしていく富女子もいます。

誰もが知ってる大企業、どベンチャー、県庁・市役所、医者、薬剤師…いろんな職業や会社で働いている友人がいるけれど、次のオリンピックまでには年収1,000万円なんて奴もいるんだから驚きです。おい、何に使うんだよってしっかり貯めてるのね。

遅刻したら駆け込み三杯なんてコールはいつの間にか無くなって、仕事だったら遅刻もしょうがないねオツカレになっているのでした。

 

そういった友人らと年に一、二回は会い、しこたま酒を飲んでは語らうことが自分の立ち位置を見直すきっかけになります。だけれど、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」と母親さながら自分を言い聞かせてみても、ちょっと、いや、すごく悔しかったりする。

健全な劣等感は、他者との比較で生まれない

人生は勝ち負けじゃないよ。他人との比較じゃないよ。

と思いながらも、かつて学生服を着て一緒にチャリンコを漕いでいた仲間がずいぶんと遠くに行ってしまったような感じがするのです。おい待てよ、いつの間に変速あげたんだよって。

 

そんな年末年始の実家帰省、読まねば読まねばと思いながらも積ん読になっていた「嫌われる勇気」をようやく開きました。今更感を抱きながらフンフンと読んでいると、一文が目に留まります

健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものだ

嗚呼、アドラー先生は全てをお見通しなのだ、アーメン。これからワタシは誰とも競争することなく、ただ前を向いて歩いていきます。

 

なんて素直に思えるはずもなく、140万部のベストセラー本よりもシンガーソングライター・竹原ピストルのむさ苦しい歌詞のほうが今の自分の心をぐっと掴んだのでした。よー、そこの若いのッ!

誰かが言ってた、“人生に勝ち負けなんてないんだ”と。確かにそうなのかもしれない。しかし、人生との戦いにおける勝ち負け、ニアリーイコール、自分との戦いにおける勝ち負けは、やっぱりあると思う。

僕は絶対に負けたくないから、どんなに打ちのめされようとも、また立ち上がって、またどこまでも拳を伸ばす。

ライフステージの次は山を駆け上がる中年ランナー

アドラー先生の「健全な劣等感」というキーワードでふと思い出したのは、以前トレイルランの大会で出会ったおっちゃんランナー。

「ワタシは自分に甘くてね、いつも自分自身に負けてばかりの人生なんです。だけど、どうにも負け続けるのだけはイヤなんですよね」

「たまには自分に勝ちたいんですよ。それが、走ることなんですよ」

父や母と同世代であろう50代前半のおっちゃん。

(きっと)子育てを終え、(たぶん)マイホームのローン返済を終え、人生80年の折り返し地点を過ぎ、定年退職までのラストスパートを走り切る!だけでは満足できず、なぜか山ん中を延々と走っている。

真人間のライフステージはもうずいぶんと駆け上がっただろうに、何を間違えたか今度は苦しそうに楽しそうに山を駆け上がっています。

そんなおっちゃんランナーに若いもんが負けてたまるかと必死に追いかけるもののレースでも勝てないんだから悔しい。おっちゃんはきちんとレースまでに力を積み上げてきているのだ、健全な劣等感とともに。たまには自分に勝つために。

他人だけど助け合っているし、 敵ではないのに競い合っている

ちなみに話は変わらないようで変わりますが、これがトレイルランを好きな理由の一つ。

「他人だけど助け合っているし、 敵ではないけど競い合っている」

 

トレイルランって1万人規模のマラソン大会と比べ、数十人・数百人の開催がほとんど。

少人数かつ長時間のレースだからこそ、レース中に倒れている人がいれば自然と手を取り助け合うし、一方で、要所要所では鼻息荒く必死に走り合うこともあります。

完走だったり上位何%でのゴールだったりと、各々が目標を持ってわざわざ山ん中を走ってるわけだけど、そこには同じゴールに向かって走り続けるひとつの集団のような一体感があります。

そして、最後は「いやぁ、あの坂はキツかったですねぇ」なんて笑った膝をさすりながら、一緒に笑い合う。こんな雰囲気が大好きなのだ。

劣等感は主観的な思い込み

話は戻ってベストセラー本「嫌われる勇気」。

アドラー先生曰く「対人関係のゴールは共同体感覚である」と。それはつまり、他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを共同体感覚と言うのだとか。共同体には職業や年収、ライフステージといった行為の違いは関係なく、そこに存在していること自体を認め合っていこうよ、というもの。

 

住む場所や仕事が変わっても「まぁとりあえずは久しぶりに会って飲もうぜ」と十年以上変わらずに会い続けている地元のメンツもまた共同体だし、「ゴールでまた会いましょう」と励まし合うランナー同士もまた共同体ということみたいです。共同体では、他者との比較は無意味だし不必要。

 

竹原ピストルが歌う「人生との戦いにおける勝ち負け、ニアリーイコール、自分との戦いにおける勝ち負け」や、おっちゃんランナーの「自分に勝ちたいんですよ。それが、走ることなんです」という言葉。

いずれもアドラー先生の言葉、健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるんだよ、と同じことを言っているのでした。

 

結局、劣等感は客観的な事実なんかじゃなくて、あくまで主観的な解釈ということ。昔から耳にたこができるほど聞いた母の言葉「ヨソはヨソ、ウチはウチ」はあながち間違いではないようです。

健全な劣等感(=理想の自分とのギャップ)と向き合いながら、途方にくれたり憤ったりしながらも、自分との戦いにおける勝ち負けを楽しもうぜ、とアドラー先生はのたまうし、竹原ピストルは歌うし、おっちゃんは走るのでした。俺はどうする。