決める、ということを決める

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決める、という行為は想像以上に体力(と気持ち)を要するものです。その行為は楽しくもあればしんどいものだったりもする。

「ランチは何を食べよう?」

「今日はどの服を着ていこう?」

なんてこともあれば、

「内定はいくつかもらったんだけど、どの企業に入るか悩んでいる」

「転職はしたいけど、どの企業に入りたいかは分からない」

なんてことも。

今回のランチはハズレだったねぇ、とちょっとの後悔が生まれる程度ならまだいいけれど、人生の岐路を決断するような選択は、やっぱり「エイヤッ!」と決めることはたいへんだし相当のエネルギーが必要です。

決断と書いて字のごとく、ひとは毎日のように何かを決め、何かを断りながら生きているはずなのだけれど、決めごとの重要性が高ければ高いほど、それはグッと心の上にのしかかるし、頭をぼんやりとさせてしまいます。時には「決める」という行為自体が苦痛になってしまうこともある。

決める、という行為に必要なのは紛れも無く情報です。選択肢に関わる情報をしっかりと集め、後悔のない選択をしたい。そう、誰もが決断した後に後悔なんてしたくないもの。

だけど、陥ってしまってはいけないのが、どの程度情報を集めるかということ。

食べログの評価を頼りにしても、友人の猛プッシュを信じても、どのお店でランチを食べるのかを決めるのは自分次第だし、美味しいかどうかを決めるのも、やっぱり自分自身でしかない。

そして、いつの間にか情報を集めることに夢中になってしまって、すっかり足が止まってしまい、決断するのが先延ばしになってしまうことも多くあります。そして、先延ばしになればなるほど、精神的なハードルは高くなっていく。

選択肢の情報を集めることと、決断することは、まったくの別モノだ。

丁寧に情報を集めて限りなく100%に近い情報を集めたからといって、そのランチが美味しいのかはどうかは分かるわけがない。やっぱり、食べてみないと味って分からないもんです。
時には、自分の嗅覚を頼りにふらっと立ち寄った小汚い中華料理屋のチャーハンがどうしようもなく美味いことだってある。

決めごとの重要性が大きければ大きいほど、決めるという行為自体が億劫になってしまいます。時には考えること自体が嫌になってしまう日もある。

けれど、大切なのは、決めたあとに前に進むのであって、決めること自体に意味があるわけではないということ。
決めた時点では何も分からないものです。その選択肢が満足いくものか、はたまた後悔するかどうかは、自分が決めた選択肢を進んでから少し遅れてついてくるはず。それは選択後の努力以外のなにものでもない。

だから、「決める、ということを決める」ことが大切なんだと感じています。
例えば、「今月までに決める」ということを決める、「五人に相談したら決める」ということを決める。そうでないと、毎日はあっという間に過ぎ去ってしまって、決めること自体に勇気が要るようになってしまう。
だから、決める、ということを決めなければいけない。根拠もなく「エイヤッ!」と決めるということを決めてしまうことで、物事って意外とスイスイ進んだりするもんだ。

久しぶりに地元の友人に会ってみれば今の仕事の不満話と転職相談、たまに連絡がくる後輩からは新卒での就職先の相談、Facebookを開けば結婚のご報告……みんな日々、何かを決めては(時には何かを断って)一生懸命に生きている。