さっきまで生きていた動物の肉が温かいことをスーパーマーケットでは認識できない

はじめて鹿が獲れました

鹿を獲った。一歳のメスだ。

猟期がはじまったのは11月中旬。「年内に1頭は獲る」と目標は掲げていたものの空振り続きの毎日、出張続きで山に入れない日も多く、成果と言えるのはせいぜいタヌキ1頭でございます。

翌日からの愛知帰省に備え、納められそうにない仕事の山に(一瞬)目をつむり、仕掛けた罠をはずしに行った仕事納めの最終営業日、お昼休み。10分もあれば山に入って罠の確認を一通りできるのが中山間地の魅力よ。

 

待望の鹿と対峙したとき「やった、嬉しい!」よりも「わ、獲れちゃった」というのが正直な感想。

頭によぎるのは納まりそうにない山盛りの仕事、予定に入れただけでまったく進んでいない大掃除、今夜は会社の納会だし、翌日は愛知帰省。いつ捌こう、どう捌こう。

 

頼みの綱の友人、もとい先輩猟師2名は当然のごとく仕事。困り果てた新米クン、もとい甘え上手な次男坊は困ったときこそお師匠さんを召喚。週に1回は電話をくれて「罠の調子はどうですか」といつも気にかけてくれる猟友会の会長さんだ。「ま、手伝えるところまでは手伝うけぇ」と電話から10分で駆けつけてくれるありがたさよ。

当たり前に肉が温かいことに驚く

首を縛り、後頭部を殴り、頸動脈を切り、山から運び出しては解体。皮を剥ぎ、内臓を取り出し、一旦終了。

さっきまで生きていた鹿が肉の塊になった。罠がかかった右後ろ脚には血が溜まっている。スーパーで並ぶ肉と違ってあたたかい。いや、ほんとうに「あ、さっきまで生きてたんだから温かいに決まってるよな」と改めて実感します。ただ、まだ全体の3割も進んでいない。

 

後半戦は先輩猟師のご指導を仰ぎながら部位ごとに切り出していく。魚の三枚おろしよりも立体的で肉も大きいので、ナイフを入れる角度や深さの調節が難しい。

肉を切るというよりも、肉と骨、肉と肉を切り外していきます。ここが背ロース、ここがヒレ、内モモ、外モモ、シンタマ……

何度も先輩猟師の解体を手伝って多少は分かったつもりになっていたのだけれど実際はそんなに甘いものではなく。気づけば深夜1時、作業開始から4時間以上も経っていたのだから驚きです。

最後には、はじめて自分で獲った野生が肉になった喜びを丁寧にラップで包んでは冷凍庫に入れ、眠りについたのでした。

自分が獲った肉を食べさせたい

翌朝、車を4時間ぶっとばしての愛知帰省。

肉も気持ちも新鮮なまま、夕飯には昨晩捌いたばかりの鹿肉が並びます。背ロースの刺し身、アバラ肉のスペアリブ、心臓、レバー、モモ肉は焼肉で。

「うまいな、うまいなぁ」と水のように焼酎を飲み干す父、すこしつまんだだけで父と息子に料理をサーブするのに忙しい母。

 

息子の「年内に一頭は獲る」という目標は、自分で獲った鹿を親に食べさせたいというところからはじまったんだけれど、滑り込みのギリギリセーフでなんとか達成できました。

 

道具に金もかかるし、毎朝のように見回りをしないといけないし、野生は簡単には獲れません。獲れたら獲れたでいつ捌こうどう捌こう、と想像よりも何倍も大変なのが狩猟。

けれど、こうして自分が獲った野生、自分が捌いた肉を誰かに食べさせてあげられるって幸せなことだなと思ったのでした。どうだ、息子が獲った肉はうまいだろ、父ちゃん母ちゃん。

コスパよりも不合理性の楽しみ方

美味しいモンを食べたいだけなら、買ったほうがコスパはいいに決まっています。けれど、ただ金を払って消費する側から、生産する側に寄ってみることでしか得られない喜びもあるでしょ。

山を駆ける野生が俺の血肉になるまでには、汗もかくし血も流れるし時間もかかります。けれど、スーパーマーケットには売っていない手触りにこそ価値があるし、不合理性を喜べる人間でありたいなと思ったのでした。