先週は西粟倉村のお隣・美作市東粟倉の第二回「山岳後山マラソン」に出場しました。最大標高差700m以上・合計30kmのトレイルレース。梅雨の合間、岡山県北の中山間地にふさわしくない32度を超える猛暑の中でのトレイルランでした。
昨年の第一回大会では、補給食の装備が足りずレース後半にハンガーノックでブッ倒れ、(他のランナーの方に助けてもらいながら)トボトボと歩いてはなんとか完走。とても悔しい思いをしたので今年こそは!とリベンジに挑んだのでした。
ところが結果はなんとも言えない第15位。ただでさえ人数の少ないレースに加え、コースアウトして失格になったランナーも何名かいるそうで、タイムは縮んだものの、きっと昨年と順位もほとんど変わっていません。おいおい全然成長してないゾ、俺。
「あと三人はゼッタイに抜く」
「この坂はなんとしても走り切る」
と鼻息荒く意思強く走っているときもあれば、
「次の電信棒を越えたらもう歩こう」
「完走できればもう順位なんてなんでもいいや」
なんて弱気のときもあります。
むしろ、レース中盤〜後半ほとんどの時間を弱気になりながら走り続けている。「もっと練習しておけばよかった」と日々の怠惰を全力で後悔しながら、足の痛みに耐えながら、ギュウッと締め付けられる横っ腹をさすりながら。
キツイ痛い苦しい辛いしんどい気持ち悪い疲れたやめたい止まりたい…
そんな気持ちをかき消すように「このレースが終わったらとびきり美味いモン食べよう」「ゆっくり温泉に浸かろう」「家に帰ったらキンキンに冷えたプレモル飲も」とアタマん中を誤魔化してみるものの、やっぱりキツイし痛いし苦しいしんどい気持ち悪い疲れたやめたい止まりたい、と思っては腕を振り、足を前に運び続けている。でも、やっぱ立ち止まっちゃう。
「なんでお前は若いのにマラソンなんてキツくて退屈そうなことしとるんだ?」
と前職の上司に言われたことがあったけれど、その時はうまく答えることができなかった。というか、どうせ理解されないだろうと真剣に答えるのも馬鹿らしくてテキトウな返事をして流してしまったことがありました。でも、やってみると意外とクセになるんですよ、って。
楽しいかというとレースの最中はしんどくて堪らないし、面白いかというと練習もレースも淡々と走り続けているわけだから、やっぱりキツくて退屈そうなスポーツだ。でも、クセになるっていうのは本当だ。
95%はやっぱり辛い、しんどい、痛い。でも、わずか残り5%がとびきり気持ち良いのが醍醐味だったりするわけで。長い長いレースの最後にゴールテープを切る瞬間。練習の甲斐あって自己ベストを更新できた瞬間。乳酸漬けの身体で熱い温泉に足を入れた瞬間。キンキンに冷えたビールをゴキュッと喉に流し込む瞬間。
その瞬間が残りの95%をパッとひっくり返してしまう。だから、総じて楽しいし、面白い。そして、翌日、筋肉痛になったガチガチの身体をさすりながら、またレースに出たいなと思うわけで。
村上春樹の著書「走ることについて語るときに僕の語ること」には、その95%に負けそうになった自分を奮い立たせてくれる言葉がたくさんあって、本棚から引っ張り出しては何度も読み返しています。今回のレース後も、布団に沈み込み、朦朧としながらぱらぱらとページをめくった。
Pain is inevitable, Suffering is optional. それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。
全力を尽くして取り組んで、それでうまくいかなかったならあきらめもつく。しかしもし中途半端なことをして失敗したら、あとあと悔いが残るだろう。
腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。
次の電信棒を越えるまで頑張ろう、と目標を目掛け走り続けては、次の一本、そして、もう一本と。腕を振り、足を前に運び続けることをやめちゃいけないんだと思ったのでした。自分のライバルは自分だ、なんて言うと途端にチープになってしまうし、こっ恥ずかしくて口にはしないけれど、きっとそういうことだ。
そして、たまたま同じレースに出場した(名前も知らない、自分の父と同い年くらいの)オッチャンとレース後に少しだけ話す機会がありました。そのオッチャンの言葉がとても印象に残っています。
「ワタシはね、本当に自分に甘くてね。いつもいつも自分自身に負けてばかりの人生なんだけど、どうにも負け続けるのだけはイヤなんですよね」「たまには自分に勝ちたいんですよ。それが、走ることなんですよ」
オッチャン、正真正銘のランナーじゃん。負けねえ、俺も。勝ちてぇ。