工務店やツアーに参加したお客さんが村に足を運んでくださった際には、会社の製造所を案内することが多々あります。
ちいさな材木屋の製造所だけれど、お客さんにとっては(そのほとんどが)はじめて訪れる場所ということもあり、とても喜んでくれます。
特に、製材機が丸太を挽く工程やフローリングの節埋めの工程は、多くのひとが足を止め、じっくりと観察し、いろんな質問を投げかけてくださいます。
「一日にどれくらいの丸太を製材するんですか?」
「丸太って一本いくらするんですか?」
他にも、
「自分と同世代の女性が多く働いていて、とても印象がよかったです」
「一枚のフローリングをつくるのに、こんなに手間がかかっていたなんて知りませんでした」
なんて声をいただくことあります。
今日はどんな質問を投げかけてもらえるか。それが密かな楽しみです。
そこにリアルがあるというか、本質が詰まっているように思うのです。
森と暮らしの中間に位置するのが、ぼくたち材木屋だ。
ビジネスモデルとしては、丸太を仕入れ、フローリングなどに加工して販売する。以上。
だけど、その単純に見えるプロセスの中に、木材業の面白さや難しさがぎっしりと詰まっています。
それをやさしくおもしろく伝わるようにしたいな、というのが最近のテーマ。
材木屋は、森と木を翻訳し、現代の暮らしにあった企画と提案ができなければいけないのです。
そうそう。ちょうど、この前、久しぶりにチェンソーを握って丸太を切りました。
ぼくたちが仕入れている西粟倉村の丸太がどんなものなのかを伝えるためのひとつの手段。
カタログに使う写真、の撮影のための素材づくり。
50-60年生の丸太の端コロ(端材)を何本も切るものの、なかなかイメージどおりにはいきません。
年輪や表情がイメージと違うのです。
根が腐っていたり、アテが入っていたり。赤身が足りなかったり、節が大きすぎたり…
過剰にきれいすぎてもダメ、かと言っても、汚いのもNG。
そのバランスを一枚の丸太に表現しなければいけません。
確かに全てはぼくらが仕入れている丸太ということには違いないのだけれど、写真一枚で表情を伝えるというのは想像以上に難しい。
何本も何本も切って、それでも納得いく表情が出せなくて、最後には近所の製材所のオッチャンの手も借りることに。
「この丸太ならお前さんの言うとる雰囲気の丸太がとれるで」
ギュイーーーン。ホラ。エエカンジジャロ?
お見逸れしました。やっぱり餅は餅屋でした。
一方的に伝えるだけでは絶対にダメで、相手に伝わらなければ意味がない。
だから、写真一枚にもサンプル一枚にも、「伝わる」要素をしっかりと盛り込んで届けたいんです。
やっぱり木材って分かりにくい。その分かりにくさが精神的なハードルを上げてしまいます。
自然の素材だから一枚一枚表情が違うし、傷がついたり汚れたりもする。でも、無垢にしかできない表情やあたたかみがあるのも確かな事実です。
材木屋の仕事は、材木を、必要寸法・数量・品質で用意するだけじゃない。
森と暮らしの中間に位置している材木屋だからこそできる、翻訳と企画だと思うのです。
一方的に「伝える」歴史、伝統、こだわり、品質よりも、
一本の「伝わる」翻訳と企画の方がよっぽど必要だ。
お客さんが投げかけてくれる質問のひとつひとつが、森と暮らしをつなげるための解決策につながるのだと信じながら、そんなことを考えたのでした。