好きなまちには好きなひとの顔が浮かぶ

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学生時代に取り組んだインターンをきっかけに、わずか4ヶ月程度ですが三重県尾鷲市というちいさなまちに暮らしていました。

尾鷲は人口二万人に満たないちいさな漁師町。背中は山に囲まれ、目の前は海。おまけにとなりまちとはトンネルで隔たれているというまさに「田舎」という言葉が似合うまちです。

 

そんな尾鷲で暮らしていると、言わずもがな、ぼくはヨソモノ。

右も左も分からないなか「尾鷲のひと」に少しでも近づきたくて、いろんな場所を探検したものでした。

 

振り返ってみて思うのは、その情報源はいつも「誰か」だったのです。

決して、インターネットや新聞、雑誌ではありません。

 

尾鷲には、時間と気持ちをかけて暮らしを営んでいるひとたちがいて、その個々人の趣向や歴史がぼくにとってのたしかな情報源だったのです。

 

「このひとが通っている店だから」「あのひとがおすすめしてくれるから」

情報のソースには、ひとへの信頼があったのでした。

 

べろべろに酔っ払いながら夜明けまで飲んだあのお店も、夜風と波の音に心洗われた防波堤も、尾鷲ヒノキの木肌の美しさも、尾鷲の誰かが教えてくれたものでした。

好きなひとが教えてくれたから、好きになれたことって意外とたくさんあるものです。

 

一方、東京で暮らし始めて二ヶ月が経った自分。

何を調べるのにもiPhoneと少しの時間があれば、事足りてしまう(と勘違いしている)。

 

食べログがおすすめしてくれたお店にはがっかりし、いつぞやテレビで観た「住みたい街ランキング」の街を一度訪れては知った気分になってしまいます。検索の上位にくるのは誰かに編集されたまとめサイトばかり。

 

顔も見えない&信頼のない情報の海に溺れている自分自身にふと気づきます。

 

東京で暮らしている9割のひとが、ぼくと同じように地方から上京してきたひとなのだと聞きました。

街を闊歩するトーキョー民たちは、そのほとんどがいわゆる地域で生まれ育ったひとのようです。そうは見えません。

みんなは不確かな情報に溺れてはいないのでしょうか?

 

この違和感もあと半年もしてしまえば消えてしまうのではないかと思うとなんだか気味が悪い。

 

好きなひとが増えることと、信頼のある情報が積み重なることは比例するのかもしれません。

 

好きなまちには好きなひとの顔が浮かぶものです。

「あのまちへ行こう!」は「あのひとに会いに行こう!」と同意語だったりするもの。